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スイスと日本の160年に及ぶ二国間関係

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“Members of the Swiss Mission to Japan” Credits: Bibliothèque de la Ville de La Chaux-de-Fonds, Départment audiovisuel (DAV), Fonds iconographique, Cote:P4-015

日本とスイスの二国間関係には160年に渡る歴史があります。1864年の最初の出会いから現在に至るまで、両国は共通する価値観に基づく実りある関係を築いてきました。現在、これらの価値観は民主主義、基本的人権の尊重、法の支配、革新の精神はもちろん、環境、精密さ、信頼性への関心など、さらに広がりを見せています。スイスと日本の強い二国間関係を形成してきた重要な出来事を振り返って、両国関係の歴史を辿りましょう。

  • 1. 1864年以前の
    日本とスイス

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    Foreign diplomats strolling in the streets of Edo (later renamed Tokyo). Humbert, Aimé (1870): Le Japon illustré. Paris: Hachette.

    ヨーロッパでは18世紀後半以降、軍事と交易の観点から日本に対する関心が高まりました。スイスの時計製造業者は、主に北米と東アジアを中心とした海外市場の開拓に特に熱心でした。1850年代の終わりには、オランダ人仲介業者、後には中国人仲介業者を通じて日本に時計を輸出していましたが、この市場をさらに開拓するため、「時計製造業組合」という合同会社が設立されました。1859年、組合はザンクトガレンの繊維産業の起業家たちと共に、ドイツ生まれの作家で外交官だったルドルフ・リンダウ(1829-1910)を準公式使節に任命しましたが、1854年以降に江戸幕府は既に7か国と国際条約を締結しており、このような日本国内の政治状況の影響により、スイスは条約締結には至りませんでした。それでも、1860年に横浜に事務所が開設され、スイス人時計製造業者フランソワ・ペルゴ(1834-1877)が責任者となりました。1861年、スイスとの通商条約に向けた交渉再開の可能性が伝えられると、全州議会議員で時計製造業組合会長だったエメ・アンベール=ドロー(1819-1900)が連邦政府を代表して新たに使節団を結成し、自身が特命全権公使の任に就きました。彼の目的は時計輸入事務所の再編と条約交渉でした。

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  • 2. 交流の始まり:
    1864年の修好通商条約

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    © Schweizerisches Bundesarchiv, K1#1000/1414#175*, K1.168, Freundschafts- und Handelsvertrag vom 6. Februar 1864 zwischen dem Schweizerischen Bundesrat und Seiner Majestät dem Taikun von Japan [AS VIII 683, SR 0.142], 1844-2004

    1862年、時計と繊維業界の代表者を含むスイス政府代表団はアンベール=ドローに率いられ、オランダの保護の下、外交使節団として日本を訪問しました。アンベール=ドローは145日間の旅の後、1862年11月17日に長崎に到着し、その後は横浜へと旅を続け、1863年4月26日に到着しました。弁天地区にあるオランダ総領事ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポールスブルック(1833-1916)の公邸に滞在しながら、江戸にいる将軍と面会しようと10か月間に渡って試みたものの失敗に終わりました。それでも、日本にいたオランダ政府代表に助けられて、アンベール=ドローは滞在の最後に条約を締結することができました。

    1864年2月6日、アンベール=ドローと幕府の外国奉行だった竹本甲斐守は東京のオランダ公使館で「スイス連邦参事会と日本国大君間で締結された修好通商条約」を締結しました。日本・スイス間のこの条約は、日本が内陸国と結んだ初の国際条約であり、全体では8番目でした。このおかげで、スイス人は開港場のある都市に居住し通商を行う自由、領事裁判権、輸入関税の優遇を得ることができました。

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  • 2.1 エメ・アンベール=ドロー
    (1819-1900)

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    Portrait of Aimé Humbert-Droz. Lithography of Henri Hébert, 1875 (private collection)

    エメ・アンベール=ドローは1819年6月19日にラ・ショー・ド・フォン近郊のレ・ブルルでスイス北部出身の時計製造業者の家系に生まれました。1848年に政治家としてのキャリアをスタートさせた後、1857年に時計製造組合(ラ・ショー・ド・フォンとル・ロックル地域の時計製造業者50名ほどが設立した株式会社)の会長になりました。スイス時計業界が早急にアジア市場に進出する必要性を感じていたアンベール=ドローは、1862年に、条約交渉のための代表団を率いて日本を訪問する権限を与えるようスイス連邦参事会を説得しました。「修好通商条約」は1864年2月6日に無事締結されました。日本滞在後、彼はヌーシャテル大学の総長(1866-1873)になり、1873年から1893年まで文学教授を務めました。1900年9月19日に亡くなりました。

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  • 2.2 エメ・アンベール=ドロー著
    「Le Japon Illustré (日本図絵)」

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    Traditional musicians. Humbert, Aimé (1870): Le Japon illustré. Paris: Hachette.

    アンベール=ドローは日本での交渉がなかなか進まないことを逆手に取り、挿絵を盛り込んだ出版物を著しました。日本についての様々な種類の絵や写真を3,668点集めた膨大なコレクションを作った彼は、スイスに帰国後、1866年から1869年まで週刊誌「ツール・デュ・モンド(世界一周)」に、日本に対する思いや尊敬の念を寄稿しました。この文章は後に編集され、1870年にアシェット社から2巻の書籍として出版されました。

    「Le Japon illustré(日本図絵)」と題された856ページの書籍には、アンベールのコレクションを基にパリのアーティストが描いた476の挿絵が掲載されています。オリジナルの日本の文書に基づいた写実的な絵をふんだんに取り入れたこのような本が出版されたことはそれまでなかったので、この本は大きな反響を呼び、ロシア語と英語に翻訳されたり、日本で大きな話題となったりしました。その結果、ヨーロッパでは日本のあらゆる事象に対する関心が高まり、極東への旅行者が増えました。日本語版は1969年から1970年に出版されました。

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  • 3. 1864-1940年:
    初期の国交

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    The Dutch and Swiss consulate in Yokohama, circa 1862. Humbert, Aimé (1870): Le Japon illustré. Paris: Hachette.

    1896年の条約改正で、スイスは日本の関税率引き上げと領事裁判権の撤回に合意する代わりに、自国民が自由に行き来できる権利を与えられました。最終的に1911年の居住通商条約によって、両国にとって必要不可欠なすべての関係が規定されました。

    当初、スイスの利益は、法律上はオランダ総領事によって、実質的には横浜のスイス領事によって保護されていました。1906年には東京にスイス公使館が開設されました。反対に、スイスにおける日本の利益を代表していたのは1879年からはパリの、1892年からはウィーンの日本政府代表でした。1916年にベルンに日本公使館が開設され、1933年にジュネーブに日本領事館が開設されたことは、両国の外交関係にとって重要な出来事となりました。さらに、1924年には法的紛争解決、1937年には刑事共助に関する条約が締結されました。

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  • 3.1 傑出した行動力の女性:
    昭憲皇太后 (1849-1914)

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    Empress Shôken in 1872

    昭憲皇太后(1849-1914)は活動的で意志の強い方だったとされ、皇室改革に極めて大きな役割を果たしました。女性教育に強い関心を寄せ、女性のための教育大学を熱心に支援しました。1912年に昭憲皇太后基金を設立して、国外への世界的な展望を示しました。金10万円に上るこの基金は、これより何十年か前にスイスのジュネーブで設立された国際運動である赤十字の平時活動を支援するために設けられました。

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  • 3.2 赤十字国際委員会 (ICRC)
    と日本赤十字社(JRCS)

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    Henry Dunant (1828-1910)

    赤十字の構想が生まれたのは、1859年にスイスの実業家アンリ・デュナン(1828-1910)がイタリアのソルフェリーノの戦いによる惨劇を目にした時です。6千人以上の死者と治療を受けられない4万人の負傷者を目撃したデュナンは、地元の住民と共に、生き残った大勢の人々を救護し、食事を与え、慰問することに専念して数日を過ごしました。この衝撃的な体験から、スイスに帰国したデュナンは戦争で傷ついた人々を助ける国家的な援助組織の設立を提唱し、将来のジュネーブ条約へとつながる下地を作りました。1863年、デュナンとジュネーブ出身の5名が国際負傷軍人救護常置委員会を結成し、これが後に赤十字国際委員会(ICRC)へと発展しました。

    現在では国際赤十字赤新月社連盟(IFRC)となっている赤十字社連盟は、ヨーロッパをはじめ世界各国に広がる赤十字社のネットワークをとりまとめるため1919年に設立されました。日本赤十字社(JRCS)もその一員です。西南戦争の犠牲者を支援する「慈善団体」として佐野常民伯爵が1877年に設立した日本赤十字社は、全世界の赤十字社191社のうち最大規模へと発展し、2023年現在、960万人を超える個人会員と12万の法人会員がいます。

    昭憲皇太后は当初から日本赤十字社を強く支援し、日本における赤十字運動の初期に大きな影響を与えました。基金は赤十字国際委員会と国際赤十字赤新月社連盟の合同委員会によって管理され、日本政府、日本赤十字社、皇室、明治神宮の寛大な支援を受け、1912年の金10万円から2023年には30億円近くへと、飛躍的に増加しました。

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  • 3.3 1927年: ヘルベチア・ヒュッテ
    日本の山に刻まれたスイスの歴史

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    © Academic Alpine Club of Hokkaido

    北海道の海抜550メートルに位置するヘルベチア・ヒュッテは、日本とスイスの歴史的つながりについて面白い逸話を伝えてくれる、見晴らしの良い山小屋です。昭和初期(1923-1932)に、チューリヒ州プフェフィコン出身のスイス人教授アルノー・グブラーが北海道大学で教鞭を執るため、共にスキーを愛する妻のマドレーヌを伴って来日しました。ホームシックと闘う中で、二人の共通の趣味であるスキーを楽しむには北海道は理想の場所だとわかりました。夫妻はすぐにこの地域初のスキーツアーを企画し、札幌の冬の観光開発が急速に進みました。

    1927年、グブラーは快適さと実用性を求めて木造の山小屋を建てることを決め、スイス人建築家マックス・ヒンダー(1887-1963)と山崎春雄教授(1886-1961)の協力を得ました。後にこの山小屋が彼に敬意を表して「ヘルベチア・ヒュッテ」と名付けられました。翌年、秩父宮殿下(1902-1953)のために空沼小屋も建てられました。オックスフォード大学留学中にスイスアルプス登山に熱心に取り組まれた秩父宮殿下の支援を得て、日本におけるウィンタースポーツ発展の初期にはスイスシャレーに影響された山小屋が続々と建てられました。これらの山小屋はハイカーたちの拠点となり、スイスと日本の愛好家たちの友情を育みました。

    グブラー関連の山小屋を所有する北海道大学と同大学山岳部はこの歴史的遺産を保存するために相当の努力を払っています。2012年に行われたヘルベチア・ヒュッテ85周年記念と、2017年に三笠宮彬子女王殿下のご臨席とスイス大使ジャン=フランソワ・パロの出席の下で行われた空沼小屋再開式典は文化交流における重要な出来事であり、スイスと北海道の永続的な絆を育んでいます。

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  • 4. 1940-1952年: 第二次世界大戦と戦後

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    The Swiss Legation in Mita. ©Gorgé family archives

    スイスは二つの世界大戦で日本との周旋役を務めました。第一次世界大戦時は東京でドイツを代表する任に就き、太平洋戦争中は日本に対して16か国を代表するとともに、19か国で日本の代表を務めました。1930年代後半に多くの外国人住民は大日本帝国を離れましたが、スイス公館職員など残留を選んだ者もいました。スイスは外交条約に則り、大使ではなく1ランク下位の公使を任命して、東京のスイス公使館を任せました。初めは麹町にあった公使館は1942年に三田に移転しました。

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  • 4.1 カミーユ・ゴルジェ(1893-1978)
    駐日スイス公使

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    Camille Gorgé, his wife Rosine and their chauffeur in the Japanese Alps. © Gorgé family archives

    カミーユ・ゴルジェ(1893-1978)は1940年2月15日に東京で公使の任に就きました。1920年代に外務省の法律顧問として日本に滞在していたゴルジェはこの役職を得ることをずっと望んでいました。彼は日本を世界で最も魅力的で洗練された文明を持つ国の一つだと考えていましたが、1940年代の大日本帝国との交渉の実態は彼にとって最も難しい任務の一つでした。

    太平洋戦争の勃発によって多くの問題が起こったにもかかわらず、スイス政府はゴルジェに日本に留まるよう要請し、避難できずに逮捕や嫌がらせの対象になりつつあった200名のスイス人の保護に努めるとともに、戦後を見据えてスイスの存在を維持するよう求めました。スイスが「周旋」を行い、共通の関心事について大日本帝国と連合国の間で「利益保護国」として行動する上で、ゴルジェと公使館は重要な役割を果たしました。ゴルジェは民間人、外交官、戦争捕虜の交換を調整するために日本の関係者と定期的に会合を持ち、国際条約の順守のために米国、英国などの連合国を代表して交渉を行いました。

    1944年半ばに連合国の爆撃が激しくなったため、大日本帝国政府は外国人を東京から長野県の軽井沢村に疎開させました。1945年末まで、深山荘という大きな別送がゴルジェとスイス公使館の事務所になりました。食糧不足と憲兵隊による監視はあったものの、疎開したスイス人は誰一人空襲に遭うことはありませんでした。食糧不足などの困難があったにもかかわらず、軽井沢の住民は公使館やスイス人コミュニティに温かく接してくれたと言われています。

    戦後、スイス公使館は東京に戻り、ゴルジェは次の任地アンカラに転勤しました。深山荘は2015年に軽井沢町役場によって史跡として保存されました。

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  • 4.2 マルセル・ジュノー (1904-1961)
    広島のスイス人医師

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    Portait of Dr. Marcel Junod. ©ICRC archives - ARR / s.n. / s.d. / V-P-HIST-02893

    1945年、広島と長崎への原子爆弾投下という惨劇を受けて、マルセル・ジュノー(1904-1961)は人道支援のために揺るぎない献身を行い、被爆後の広島にとって欠かせない人物となりました。1904年にヌーシャテルで生まれたマルセル・ジュノーは20代の時に医療に従事し、31歳で赤十字国際委員会(ICRC)に加わりました。その後の10年間にジュノー博士はエチオピア、スペイン、ドイツ、ポーランドなど戦争被害を受けた地域に赴き、命を懸けて弱い者や戦争捕虜を保護しました。

    1945年、日本で戦争捕虜の扱いを監督するというジュノーの任務は、広島の前代未聞の惨劇を目にしてから、思いがけない方向に転換しました。破壊の規模にショックを受けた彼はすぐに救護隊を組織して9月8日に広島に到着し、現地に入った最初の外国人医師となりました。15トンの医療物資を携えて、アメリカの調査隊と日本人医師2名と共にジュノーは各地に点在する救護所を訪れ、必要な物資を配布したり、外科医として治療を行ったりして、多くの命を救いました。この任務は現地の医療従事者にとっての転換点になったばかりか、貴重な写真記録も生み出し、それがICRCによって世界中に伝えられました。

    東京に戻るとジュノーは「The Hiroshima Disaster(広島の惨劇)」を著しましたが、これは1982年にICRCから出版されました。1950年代には体調を崩していたにもかかわらずジュネーブで人道支援業務を続け、1961年6月16日に亡くなるまでICRCの要職を務めました。マルセル・ジュノーの偉業は広島で強い存在感を示しています。1979年9月8日に広島平和記念公園に彼の顕彰碑が建てられ、彼の命日には毎年記念祭が行われます。さらに、2010年にスタジオ雲雀が制作したアニメ映画「ジュノー」は彼の生涯を辿り、被爆地の混乱の中での彼の慈悲深さを描いています。

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  • 5. 1952-2000年: 高度経済成長期

    日本とスイスの政府間関係は1945年から1952年まで中断しましたが、1952年4月28日に再開し、それ以来、止まることなく発展を続けています。1955年に在スイス日本国大使館、1957年に在日スイス大使館が開設されました。この時期に締結された条約は航空協定(1956年)と租税条約(1971年)で、日本とスイスの経済的協力関係をさらに発展させました。1980年以降は日本経済の自由化のおかげで日本に拠点を置くスイス企業が増加しました。

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  • 5.1 1957年: スイス航空、日本に就航

    直行便の開設は日本とスイスの交流の発展に重要な役割を果たしました。二国間条約を受けて、1957年春にスイス航空が日本に就航しました。その際、スイスの政治・経済界から大規模な訪問団がDC-6Bに搭乗し、チューリヒ、ジュネーブから4日かけて東京にやってきました。その中には、ベルン州議会社会党議員でスイス航空役員、そして山岳ガイドでもあるサミュエル・ブラヴァンド(1898-2001)がいました。彼は1920年代に秩父宮殿下をはじめ日本人登山家たちと共にアルプスに登頂していました。30年経って、彼は当時の登山仲間や秩父宮妃殿下と再会しました。このような登山関連の交流がきっかけとなり、1970年以降に日本からスイスへの団体旅行が盛んになりました。

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  • 5.2 1964年: 初の姉妹都市提携:
    倶知安とサン・モリッツ

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    St.Moritz ©Switzerland Tourism/Jan Geerk
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    Mount Yotei ©Kutchan Town

    サン・モリッツ冬季オリンピックに参加する日本人選手を励ますため、1927年に秩父宮殿下が北海道を訪問しました。訪問中にニセコアンヌプリとチセヌプリでスキーをされたことから、記者たちは倶知安地方を「東洋のサン・モリッツ」と呼びました。このニックネームは日本の山岳愛好家たちの心に留まり、倶知安町に観光客を呼び寄せました。

    この好意的な連想を喜んだ倶知安町の高橋清吉町長は1964年のインスブルック冬季オリンピック大会期間中にサン・モリッツを訪問しました。町長は、国交樹立100周年を記念して両町が姉妹提携するアイデアを2月1日に提案しました。サルトモ町長はこの提案を大歓迎し、両氏はお互いのハンカチに即席の協定を記して署名しました。3月19日に倶知安町からサン・モリッツに正式な要請が送られ、6月11日にスイス側で正式に承認されました。ちょうど1964年の東京オリンピック大会の前に、両町はスイスと日本の自治体で初の正式な姉妹都市となりました。協定締結後、サン・モリッツと倶知安の間では青少年交流、訪問団派遣などの交流事業が盛んに行われています。この最初の姉妹都市提携に続いて、24の姉妹友好提携が結ばれており、人と人とのつながりや、共に行う活動のネットワークが広がりを見せています。

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  • 5.3 1974年: ハイジのアニメ

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    ©ZUIYO

    スイス人作家ヨハンナ・シュピリ(1827-1901)が生んだスイスを象徴するキャラクター、ハイジ。特に日本のアニメ版ハイジは世界の文化に忘れられない足跡を残しました。元々は典型的なスイス人の代表として構想されたハイジという孤児の女の子がアルプスの理想郷で幸せを見つけて、その温かい心と明るさで周囲の人々の心を動かすという感動的な物語です。シュピリが生んだベストセラー小説は作者の存命中に読者の心を掴んだばかりか、海外でスイスのイメージが形成される際に大きな役割を果たしました。

    世界的に有名な宮崎駿、高畑勲、小田部羊一などが手がけたアニメ版は「アルプスの少女ハイジ」という名前で1974 年に放送されました。制作チームは1 週間スイスで過ごし、彼らがスイスで体験したすべてが作品に反映されています。原作の舞台となったマイエンフェルトのほか、本物のアルプスをみるため、アルプスの中心地ユングフラウ地方を訪ねました。1980年代から多くの西欧諸国でテレビ放送されるようになったこのアニメの成功は日本国内に留まりません。ハイジはスイスと日本の文化的つながりを体現する人気作品です。

    日本におけるハイジの人気はアニメ版より前、多くの日本語版の最初の翻訳が出版された1920年代に遡ります。牧歌的で自然中心の物語により多くの人々が惹きつけられるようになった第二次世界大戦後に、このキャラクターはより幅広い人気を得ました。2023年5月、チューリヒにあるハイジとヨハンナ・シュピリに関する二つのアーカイブがユネスコの「世界の記憶」に登録されました。ユネスコはこれらの歴史的記録の特別な価値を認め、140年に及ぶ成功と影響の歴史を国際的に評価しました。

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  • 6. 21世紀:
    イノベーションと協力

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    21世紀も日本とスイスの関係は発展を続け、一連の協定や高いレベルの訪問に彩られています。両国の関係は法の支配や平和的紛争解決など共通する方針や価値観を特徴としています。その中核となっているのは商業で、両国ともに高品質かつ信頼できるサービスを追求しています。近年、日本市場はスイスの対アジア輸出にとって大きな推進力となっています。金融の分野では、両国政府が定期的に会合を開き、持続可能な金融を推進するために協力しています。永続するパートナーシップのもう一つの基盤が教育、研究、イノベーションです。日本とスイスは世界の舞台で緊密な協力を続けていますが、その一例が国際連合です。両国は様々な小委員会において共同で役職を務めたり、2023年と2024年に国連安全保障理事会の非常任理事国を務めたりしています。世界貿易機関と経済協力開発機構でも協力しています。

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  • 6.1 協定

    2000年初頭から、重要な協定や祝賀イベントが日本とスイスの国交を強化してきました。2007年に締結された科学技術協力協定は研究とイノベーションにおける協力を推進します。その後、2009年には自由貿易経済連携協定が締結され、両国の経済的つながりが強化されましたが、これは同種の協定として日本がヨーロッパの国と結んだ最初のものでした。2012年の社会保障協定の施行は国民の福祉に対する両国政府の関与を示しています。2021年、日本とスイスは「所得に対する租税に関する二重課税の回避のための条約」を改正する議定書に署名しました。大学間の協定は70を超え、両国は学術交流や最先端の研究活動を育む活発なネットワークも築き上げています。

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  • 6.2 訪問

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    President Ignazio Cassis met with Japanese Prime Minister Fumio Kishida ©Ayako Suzuki

    何年にも渡って高官レベルの様々な訪問が行われ、両国の関係が強化されてきました。

    2014年の日本・スイス国交樹立150周年に際して皇太子殿下がヌーシャテルを訪問されたことは、両国の永続する友好親善と通商の歴史を象徴するものでした。2015年にはディディエ・ブルカルテール連邦参事が当時の岸田文雄外務大臣と会談し、欧州安全保障協力機構とアジア諸国との安全保障協力とパートナーシップについて話し合いを行いました。2018年にはアラン・ベルセ連邦大統領が安倍晋三首相と二国間協議を行い、経済政策や国際問題を含む二国間関係について話し合いました。

    2019年、安倍晋三首相がダボスの世界経済フォーラム年次総会に出席してデジタル化やデータの成長可能性について演説を行い、国家間でデータ提供を行うより良い仕組みの必要性について述べました。その同じ年、ウエリ・マウラー連邦大統領が来日して安倍晋三首相に迎えられ、両者は地域的な話題から世界的な金融・経済制度の中枢に係わる問題まで話し合いました。

    2021年の東京オリンピック競技大会の際にはギー・パルムラン大統領が菅義偉首相と会談しました。翌年、イグナツィオ・カシス大統領が岸田文雄首相と林芳正外務大臣と会談し、世界的な安全保障問題について話し合うとともに、国際的な法の支配、国際機関における協力、貿易関係などの共通の関心事を取り上げました。

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  • 6.3 最近の動向

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    © Consulate of Switzerland in Osaka, Swissnex in Japan

    2022年に在福岡スイス名誉領事館、2023年9月に在大阪スイス領事館/スイスネックス・イン・ジャパンが開設されたことは近年の記念すべき出来事です。大学、研究施設、スタートアップの間における協力関係の基軸となるスイスネックスは、共同でイノベーションを追求する新たな拠点を得ました。科学関係の代表団と共に来日したマルティナ・ヒラヤマ長官は新領事館の開所を祝し、両国が協力して科学分野の活動を行う重要性に触れました。マルティナ・ヒラヤマ長官と盛山正仁文部科学大臣が国際協力覚書に署名したことは来日中の重要な出来事です。この覚書は京都で開催された「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム(STSフォーラム)」の際に締結され、量子科学、人工知能、ロボット工学、材料科学、宇宙研究など多様な分野に渡る研究活動における協力関係を強化することを目的としています。先行する協定が築いた基盤の上に成立したこの覚書は、共同で研究やイノベーションを推進しようとする不断の努力をよく表しています。

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  • ピエール=イヴ・ドンゼ大阪大学教授と共同で作成